PC-1について、ここに記述してください。 https://www.iijlab.net/~ew/pc1/pc150th.pdf PC-1完成後50周年 の出版 == PC-1との出会い 木村 泉 == 大学の教養課程が終って,物理学科に配属された学期に,何とかいう名前の必修の演習科目がありました. 細かいことはもう覚えていませんが,たくさんの先生が替わり替わりでていらっしゃって,お話があったり, 中にはちょっとした実験を体験させてくださる方もいらっしゃいました. その演習課題の一つとして, PC-1(ピーシーワン)という,手作りの,当時できて間もなかったコンピュータが登場しました. そして「何でもいいから,これを使って面白いことをしてみなさい」という趣旨の課題を与えられました. PC-1の中心的な作者であられ,やがてその大学の教授になられた,後藤(英一)先輩が命令表を配布されて, そんなようなことを言われました. そのころ先輩は,先生というよりは兄貴,という感じに見えました. そうそう,その時代,コンピュータという名前は使われてはいませんでした. PC-1も「電子計算機」と呼ばれていました. その体験が私の進路を思い掛けない方向に向けました. その演習課題は,(実は後年,あちこちのコンピュータ科目でやたらに使われ, 今では「うええ,またそれを言うのかねぇ」というような反応を招きかねるものに成り下がっているようですが) その時代とその環境の中では,本物の興奮を招き寄せる強い力を持っていました. 残念ながら当時の配布物とか,ノートとか,出したリポートなどは何一つ手元に残っていませんが, あとで提出したプログラムについて,どなたかから「あれは面白かったぞ」というお褒めをいただいたという記憶があります. あとでそう思い込んだのかも知れませんが... . そういえば,PC-1にはオープン時間というのがあって,学生でもプログラムを試す機会がありました. もし本当に「面白かったぞ」と言われたとすれば, 演習の時間だけではなく, そのオープン時間のお蔭だったのではないかと思います. いまならコンピュータぐらい,そこらにごろごろ転がっていて,そんなの当たり前じゃないか,ということになっていますが, 考えてみると,その時代に駆け出しの学生がそんな体験をできたというのは,とんでもない幸運でした. それが私の進路を決めました.出会いとしか言えません.「ありがたいこと」の一語です. ---- PC-1とTACと 中澤 喜三郎 筆者は, PC-1とは直接的な関係はないが,ほぼ同時期に東大で開発が行われたTACの開発に携わった者として 渦中にあって見聞きしたことを中心に記してみたい. TACは主として東芝が設計・製作を行った真空管式のcomputerで, 東大工学部総合試験所に搬入され,これを稼動させるべく,いわゆる調整作業が行われていたが,中々稼動にいたらず, 東芝の人は引き上げてしまい,村田健郎講師と院生であった筆者が細々と何が問題なのかを探っていた. 1957年10月4日には朝日新聞のコラム「フィルター」欄で‘超スローモーの電子計算機’という形で採り上げられ糾弾されて, 学内の幹部を始め大騒ぎになった. しかし,多額の国費を使って動かない理由も明らかにせずにこのまま終わりという訳にはいかないと, 村田・中澤で細々と基本的なことから探求していた. 丁度その頃, 1958年3-4月頃にPC-1が動き始めたということを直に聞き,大いに勇気付けられたのを思い出す. その当時のTACの状況からして,些かの羨ましさと,しっかりせねばという対抗意識が出てきたのも事実である. 後藤英一さんからはTACのことを心から心配して, 「TACはもう止めるべきだ,TACが続いているから国からはcomputerの研究費予算が出ないし, 企業も中々computerの事業化に踏み切れないでいる. このままでは,日本のcomputerはおかしくなる」というような話が出たこともあった. しかし, PC-1が動き出したことでTACの当事者も頑張らざるを得ず, 1958年8月頃にはTACも基本的に何が悪かったのか,どうすれば良いのかの目鼻がついてきたので, 村田さんの強い指導力でTACも全面的に作り直すことにし, 設計・組み立てが始まった. こういう事に踏み切れたのは, PC-1の稼動開始が背中を押してくれたことが大きくものを云ったと思う. その後,高橋研などからの精神的サポートもあり, 作り直し決意後1年3ヶ月で1959年1月21日にはTACも動くようになった. そして1959年2月21日には,文部省・マスコミ・学内・関係者にお披露目のデモを行なった. この間のPC-1(高橋研)とTAC(雨宮研)の関係の詳細経緯は下記文献を参照されたい. TACはその後, (1)ブラウン管メモリの利点を活かしてRAM容量を2倍に拡大し, (2)浮動小数点命令を追加し, (3)index registerを追加するなどを行い, 1962年7月まで,主として工・理・農・経の各学部ユーザーに使われた. 参考文献 {{{ [1]高橋秀俊:「コンピューターへの道」文芸春秋社, 1979年9月 [2]臼井健治:「日本のコンピューター開発群像」日刊工業新聞社, 1981年5月 [3]情報処理学会:「日本のコンピュータの歴史」オーム社, 1985年10月 [4]遠藤諭:「計算機屋かく戦えり」(株)アスキー, 1996年11月 }}}